「東京女子図鑑」から見えてくる、東京カレンダーに込められた思想

少し前からネットで話題になっていたこの連載を読んだ。

tokyo-calendar.jp

 

 若く素朴な女性だった「綾」が、歳を重ね一人前の「東京の女」へと成長していこうとするが、それも束の間、女性としての生き方を思い直して方向転換するもうまくゆかず、折り合いを付けられずに苦しみながらも彼女なりのささやかな生活に落ち着く、というストーリー仕立てで、「綾」が暮らした街の有名レストランを紹介していく。

 

 似たようなストーリー仕立ての連載は同サイトに多数あるものの、どうやらこの連載は異例のPVを獲得したようで、連載を終えてからも人気記事一覧に登場している。

 

 23歳の三軒茶屋編 https://tokyo-calendar.jp/article/4563 では「もし彼氏ができたら、その彼氏は、この街のような飾らない笑顔が似合う人だったら最高だね」と言っていた綾が、28歳の恵比寿編 https://tokyo-calendar.jp/article/4609 では「恵比寿を指定されたとき、ドキドキしたけど、今では、逆に渋谷を指定されると、何だか気分が萎えてしまう(笑)」と言い、さらに31歳の銀座編 https://tokyo-calendar.jp/article/4640 では「31歳になって、恵比寿を見てみると、赤文字系ファッションに身を包んだ「これから合コンです!」って感じの女の子が多いことに気付きました」と、見事に変貌を遂げている。さらに、31歳の綾は「一回り以上も年上の方なんですけど。・・・結婚?とんでもない。そういうのを望める人じゃないんです・・・ 」という相手と交際しているという。これは不倫など、不穏な関係を感じさせる。23歳の綾とは大違いである。このような、ある意味ステレオタイプな野心と欲望に満ちた人生は、現代・女版「赤と黒」といってもいいかもしれない。ネット上でも様々な感想、考察記事が書かれている。どれも興味深く読んだ。

blogos.com

 こちらは筆者も「与太話」と述べるとおり、「綾」の正体を独自の視点で喝破している。読み終えてから考えれば、ある意味それが当前なのだとは思うが、論の組み立てが面白い。

 

achico-w.hatenablog.com

 こちらは感想記事なのだが、「綾」と近い年齢・立場のOLという視点からの感想で、ざっくばらんで面白い。

 

 そこで、私も少し別の視点から「東京女子図鑑・綾編」について考察を加えてみようと思うのである。

 

 「東京カレンダー」は、「世界一のグルメシティ東京の人気レストラン、料理を徹底取材。デートやビジネスに役立つグルメ情報が満載」と謳うグルメ・ファッション誌である。膨大な数のレストランが溢れる東京で、一人前の大人が知っていて使うに値する店を紹介してくれている。

 その目的のもと、今回の連載では秋田から上京してきた若いOLの「綾」を主人公に、その生き様を辿りながら東京のあちこちにある名店を紹介するという形をとった。その記事のコンセプトがまず素晴らしい。単にある街にスポットライトを当てるのではなく、そこに暮らす「綾」という人間を中心に描く、それも時間軸を持たせて描くことで、そこで紹介されたレストランを単なる「名店」ではなく、「人生のこんな時期に、こんな風にして行く店」という印象を与えることに成功しているのである(そのイメージ付けはあくまで一解釈に過ぎないので、正解不正解という問題ではない)。その最たる例が、作品全体で2度言及されている「ガストロノミー・ジョエル・ロブション」であろう。綾はこれを「行ってみたいレストラン」として挙げ、「『30歳になるまでにデートで行けたらイイ女』って先輩に言われたよ。あと、3年かぁ・・・それまでに、連れて行ってくれる彼氏が現れるといいな」と、28歳時に述べている。東京カレンダーは、ジョエル・ロブションを「イイ女ならば30歳までに連れて行ってもらえる店」と描写し、記事を読む男女に対し「彼女を大切にしているなら/意中のイイ女とお近づきになりたければ、30歳までに連れて行ってあげなさい」「彼に連れて行ってもらえるように/連れて行ってくれる男性が現れるように、イイ女を目指しなさい」と暗示しているのである。単に「ロブションは名店!」と描写するのとでは、インパクトが違いすぎる。そしてこの手法の素晴らしさは、紹介される店はロブションに限定されないということなのである。恵比寿なら移転したばかりの「エメ・ヴィベール」でもいいだろうし、渋谷近辺ならば「シェ松尾」でもいいだろうし、すでに閉店してしまったが、神泉の「バカール」でもよかったかもしれない。どれも20代の女性が自腹を切って行けるような店ではない。このような意味付けは「シーン」「使い方」を重視するグルメ雑誌なら得意とする技で、特に目新しい手法ではないのだろうが、それでも効果は大きいのである。ネット上では反感を買ってしまった部分もあるが、それでも多数の読者に「ロブション=イイ女を連れて行く/イイ女なら連れて行ってもらえる」という刷り込みをすることに成功したのであろう。

 

 また別の視点から考えてみよう。記事全体から透けて見えるのは、徹底した「東京至上主義」、それも「"一流の東京"至上主義」である。考えてみてほしい。東京圏に暮らす若者で、就職と同時に三軒茶屋より都心に暮らせる人間がどれほどいるか。綾は三軒茶屋編で、三茶を「おしゃれすぎず、かといってアングラすぎもしない、適度におしゃれで、適度にださい」と述べているが、とんでもない視点である。秋田駅前と三軒茶屋駅周辺を比べたとしても、三茶を「適度にださい」とは言えないはず。秋田の繁華街と三軒茶屋はせいぜい「良い勝負」くらいだろう。三茶を「ださい」というためには、三茶をよく知った上で、下北沢や吉祥寺、恵比寿、渋谷、二子玉川、といった周辺の街と比較しなければならない。作者はそれができているのである。もちろん「綾」は架空の人物であり作者は東京を熟知した人間であるのは当たり前だ。しかし、この作品ではせっかく「秋田から上京してきたOL」を主人公にしているのに、「"一流の東京"至上主義」という思想を隠せずにいるのである。

 その思想は回を追うごとにエスカレートし、露骨になる。恵比寿を「若いお姉ちゃん達が住んでいる街」と呼び、代々木上原を「中庸」と呼ぶ。作中において、否定的な言葉をかけられていないのは「銀座」だけである。言わずもがな、銀座は東京の、いや日本の粋を集めて形成された「一流の」街であろう。そこに暮らして、いや月に一度でも立ち寄ってその粋を存分に味わえる人間が日本に、東京にどれほどいるか。東京カレンダーは綾を通して、読者に対し「一流の東京を体験せよ」と語りかけているのである。その思想からは、東京都民と言えど「東京人」ではない、という結論さえ導き出せてしまう。綾が暮らしたような街に暮らせる人は少数派だ。三茶も恵比寿も銀座も豊洲も、代々木上原も、東京の街のなかでは比較的都心に近く、便利でオシャレな街である。東京カレンダーにしてみれば、駒澤大学や五反田や八丁堀や世田谷代田はそれらより一歩下で、ましてや吉祥寺以西や池袋以北は「"一流の"東京ではない」などと言わんばかりかもしれない。実際、そういった地域の飲食店が東京カレンダーで紹介されることは、さほど多くない。店の数から考えれば仕方ないことかも知れないが。

 

 さらにもうひとつ、前述の論から逆説的に導き出せることがある。それは、"一流の東京"を体験する「東京人」など存在しない、幻想に過ぎない、ということである。先程述べたように、作中で描かれたような「"一流の東京"体験」をできるような、経済力と時間的余裕を持つ人間は東京都民でもごくわずかしかいない。では「東京人」とは何なのか?便利でオシャレな街に住み、一流の東京文化を体験するのが「真の東京人」だとすれば、大多数の東京都民は東京人でないことになってしまう。しかし東京都に長く暮らす人間ならば、東京カレンダーが突きつけてくる「"一流の東京"至上主義」を、自然に笑い飛ばすことができる。「ロブション?そんなところに行かなくたって、家族で昔から通ってたレストランが家の近くにあるよ。いつも家族連れでいっぱいだよ」「空也?知らないなあ。うわ高いなあ。近所のおばちゃんが売ってる最中の方がいいや」これこそが"真の東京人"であり、東京のあちこちで連綿と暮らしを紡いできた人間の本当の姿であろう。坂口安吾の「日本文化私観」に現れるような発想といってもいいかもしれない。東京人は生まれながらにして東京人なのである。

 

 では、東京カレンダーは誰に対して「"一流の東京"至上主義」を語りかけているのか。東京に長らく暮らしている人間には、その魔法は通用しない。とすれば......それはまさに、「綾」のような、地方から出てきて東京を知らない人間、はっきり言ってしまえば「田舎者」なのである。

 東京に出てきた人間に対し、「東京に暮らすなら一流の暮らしをしないと」「東京の人は一流の街で一流の体験をしている」と吹き込む。すると「田舎者」は東京に暮らす普通の人々の暮らしが見えず、渋谷や新宿や銀座ばかりが目に入るから、それが普通のことなのだと思い込み、出世すること、金を使うこと、"一流の"暮らしをすることに血道を上げる。東京カレンダーの提示する幻想的な"東京人"になろうとする、東京カレンダーの理想とする"消費者"が出来上がるのだ。田舎者は自分が立派な東京人になったと思い込むが、実際はそうでないことにいつか気付くのだろう。東京の普通の人々は、ロブションもロオジエ空也も知らないが、それで立派な東京人なのだ。逆に田舎者が「空也」など知っていたら、それがちぐはぐなのである。誰に教えてもらったんだ、どの雑誌で読んだんだ、田舎者が頑張っているね、と思われてしまうだろう。

 つまり東京カレンダーは、"一流の東京"や"東京のオシャレな暮らし"を発信するのだが、その実像は、田舎から出てきて東京をろくに知らない若者が、必死で「東京人」になるためにお勉強するためのメディアなのである。そのことを努々忘れることなく、東京カレンダーの提示するきらびやかな世界に没入していけば、きっといつか本当の"東京人"になれるのではないだろうか。

 

追記

 さらにもうひとつ思うことがある。主人公の綾は、結局のところ結婚というひとつの幸せを掴むことに失敗してしまったわけだが、その要因としては恵比寿・銀座あたりでの華やかな暮らしが挙げられるだろう。「東京カレンダー」に掲載されるような店に連れて行ってもらえる女性というのは、おそらくは"イイ女"であり、きっと早々と結婚することなくキャリアを積み、年上男性とデートして"美味しい思いをする"傾向にあるのではないか。綾にこのような人生を辿らせたのは、そういった生き方をする女性(こそが、東京カレンダーの客の一部なのだが)に対する風刺、男性側からの嫌味なのではないか、と思う。綾のような女性達がいなければ東京カレンダーのビジネスは成り立たないわけだが、同時に綾のような生き方をする女性達から苦い思いをさせられることもあるであろう男性達の、ささやかな反撃の匂いを感じるのである。

 

tokyo-calendar.jp

 

 と、このように記事を書いていたら、なんと男性版の連載が始まったようだ。こちらも目が離せない。どんな"東京ライフ"を提示してくれるのか、今から楽しみだ。

 

 このような見方について、読んだ方々からご意見をいただけると非常に嬉しい。